20年-月経トラブル専門鍼灸

自然の生命の営みと生態系

〇最近、20年前のことを思い出す。なぜならば、20年前は私にとっての大きな節目だったからだ。その頃は、人間が作った社会を信じていた。社会は正しくできているから、正しいことがまかり通ると信じていた。政治がらみの事件なども報道されてはいたが、心の中では基本的に人間社会を信じていた。会社にも洗脳されていたので、がんばって昇進することは、すばらしいことだと思っていた。会社が休みの日には、昇進試験に受かるために家庭教師を招いて勉強を教わり、英語でも同じ目的で個人レッスンを受けていた。昼休みにも勉強していたので、食事をする時間がもったいなくて柿ピーを食事代わりにした。人間がつくった社会を信じていなければ、こんなことはできない。ありったけの根性を出し切って、仕事に全てをかけることが自分を成長させる道だと信じて疑わなかった。

〇その後、”名ばかり管理職”になり、会社の裏側を見たり、経営者側の人間が何を考えているか、などを目の当たりにすることになった。そんな中で、社会の醜さやくだらなさを見てしまった。結局、人が集まると足の引っ張り合いや何やらで、大人の顔をしながら実際にやっていることは”サル山の争い”とあまり変わらないことが分かった。子供の喧嘩以下のくだらない、そして陰険なことが蔓延(はびこ)っているのが現状だった。子供には「いじめはいけない」「仲間はずれはいけない」と教えるが、大人ほどいじめや仲間はずれを執拗にやっていて、しかも、子供よりも陰険だったりする場合がある。そして、一般社員の前では平然ときれい事を言っていた。人間がつくった組織・社会とはこんなものか・・・と失望することに遭遇することが多かった。

〇20年経った今、信じているのは”自然の生命の営み”といったら大げさだが、自然の力の偉大さや、自然とともに旺気や衰退を繰り返す生物の生命の営みを信じるに至った。それは、人から強要されたものでも、洗脳されたものでもない。自分の身体で感じ、患者さんに身体を貸してもらって手に入れたものだと思っている。人間社会のルールは所詮人間が作った”つくりもの”だ。大自然の営みと比較したら、取るに足らないくらいの小さなものだ。我々はそんな小さなものに振り回されて、四苦八苦しなければならないのだから大変だ。人のものを暴力で奪ったら、それは犯罪者として厳しい罰を受ける。しかし、たとえどんなに陰湿な手段を使おうと、合法的に奪ったのならば罰は受けない。むしろ、暴力で奪う方がまだマシではないか・・・と思うときさえある。人間がつくったルールなどは、所詮そんなものだ・・・と思うときがある。

〇それに比べて、自然はとてつもなく雄大だ。そして、自然の摂理は絶対だ。その摂理に背いて平気な顔をしているのは人間だけだ。最近、県立公園の河川敷で工事が始まった。草ボウボウの中を切り開いて工事を始めた。また、色々な生物がいなくなる。ヘビや珍しい鳥や小さな虫などは途端に姿を消すし、草の種類も大幅に減る。上っ面(うわっつら)だけのきれいな公園にするのかもしれないが、そんなことをして「整って良かった」などと能天気なことを考えているのは人間だけだ。上っ面だけしかみていないから、どんな生物が姿を消すのか、どのように生態系が壊れるのか・・・などを考える人はほとんどいない。緑の公園なんだから良いではないか・・・などと能天気なことを考えているのかもしれないが、実際に中身を見れば、様々な生物の宝庫が崩壊していくことになる。また、再び生態系が整えられるまでには年単位で時間が必要だし、整えられたとしても元のようにはいかない。そんなことは何も考えずに、平気で自然を壊していく。そして、人間の体内の生態系についても、同様のことが行われている。次々に新薬が開発され、壊れる範囲は狭くなったとしても、深さは変わらない。逆に、深さが浅くなれば効かなくなる。

〇私も含めた人間の欲望は、自然にとっては邪魔者以外の何ものでもない。人間の欲望さえなければ、自然界はこんなにメチャクチャにならなかった可能性がある。自然界だけではなく、人間の体内の生態系もどんどんおかしくなっている。人間の体内の生態系を壊し、生命力が活性化しない麻痺させた状態にして、「平均寿命が延びた」などと言っているが、本当にそれが我々人類にとって幸せなのだろうか?

〇今日も、荒川の河川敷で静的な運動をした。自然と一体になることを目的として、古人がつくった東洋的運動だ。運動する前は、膝がコキコキして、腰が痛くて、気持ちはすさんでイライラ・・・という状態だった。西洋科学的にいえば、「関節液がどうの」とか「ストレスがどうの」などというのであろう。運動している最中に、乾いていた口の中に唾液がダラ〜ッと出てきた。ああ、そういえば、食べ物をおいしく感じられていなかったことに気づいた。西洋科学的には、膝痛や腰痛、食欲減退などと別々に考えるが、実際はそうではない。生命力が落ちているときは、体中の潤いが低下するので、唾液も胃液も目も髪も、肌も、膝も手首も腰も、全てにそれが現れる。生命力が旺気した時の唾液はあまい感じがする。古人は養生の甘露、華池の水、といったらしい。同時に、かさかさに乾いて何かあせっていた心に潤いが戻る。自然と共に生きていられることに幸せを感じられるとともに、「焦って何かをしよう」などという欲望が消えていく。西洋科学的発想では「精神的に・・・」「肉体的に・・・」などと精神と肉体を別々に分けるが、それが間違いであることを認識するのはこんな時だ。また、同時に膝や腰も目も含めた体全体にタラ〜ッと潤いのようなものが沸いてくる。気づいてみると、立ちながら居眠りをしているような感じだ。こうなると、もう膝のコキコキや腰痛などは消滅している。気持ちの良いそよ風と、川と、木と、草と、鳥と、毛虫や小さな虫や、名もない雑草や微生物なども含めた、自然全体と自分が一体になったような感覚を味わう。「河から湯気がでているような、自分がお風呂の中に浸っているような、自分の身体の中の奥深い所から、何かが生産されているような感覚になり、「ここはどこ?私は誰?」というように状態になる。そんな時は「自然と一体ってこういうこと?」と思う。この自然の力を使わずして、麻痺させることしか考えないなんて・・・どう考えてもおかしい・・・と思う。こんな感覚を味わえる場所は、人工的な公園ではない。草ボウボウで、人間の手があまり加わっていない場所でないとこうはいかない。自然の力、生命の力のすばらしさを知らず、麻痺させたり、無理矢理に操作して固定することばかり考える西洋科学的発想一辺倒では、我々は本当に不幸だ。

〇20年前には、自然の中の自分など考えたことすらなかった。人間社会の醜い争いや戯言(ざれごと)にドップリとつかり、欲望に凝り固まった自分であったにも関わらず、「自分は真面目に努力をしている」などと一人でよがっていた。そんなものよりも、両親や兄弟や家族などの大切な人のために仕事をすることの方が、何十倍も尊いだろう。私は大切なもののために仕事をしていたわけでなく、自分の欲望のために仕事をしていたわけだから、つぶれて当然だったと思う。途方もなく大きな犠牲を払ったが、代わりにほんの少し大切なものが見つかった。”生命の力”という最も巨大で絶対的な理(ことわり)が自分の信じるものとして存在している。

〇最近、死ぬとなんだ・・・などということを考えている。親の死もそう遠くはないだろうし、その後であれば、自分もいつ死んでも良いと考えているからかもしれない。野生の動物は死が近くなると、一人でどこかへ行って、ひっそりと死を迎えるという。それが自然の理(ことわり)なのかもしれない。我々人間も、本来はそんな自然界の生き物の一種であったはずだ。死が近づいたら必要以上に麻痺させず、自然にひっそりと死を迎えるのが、本来の姿なのかもしれない。私は死を現実的に考えなくて良い恵まれた立場だから、こんな悠長なことを考えられるのだろう。次は「死」だ。「死」とはなんだろう。未熟者の私は今日も眠れそうもない。
(2010・11記)

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